China Report 2.1

秦始皇兵馬俑博物館
〜その1〜

西安の北東30kmほどに位置する秦始皇兵馬俑坑
中央のアーチ屋根の建物は1号坑,隣接する右の建物は2号坑

 西安と言えば兵馬俑,1987年にユネスコの世界遺産に登録され,今や陜西省のみならず世界をを代表する歴史遺産になりました。 ここの兵馬俑は「秦始皇兵馬俑坑」と呼ばれており,1979年10月1日から秦始皇兵馬俑博物館として対外開放されています。  この兵馬俑坑の「俑」とはひとがた,木偶の意で,辞書をめくると『古代中国で人の死後の生活を助けるために墓の主と一緒に埋葬された木製,陶製または石製の像』などと解説があります。 中国では各地に兵馬俑が見られ, 江蘇省徐州市獅子山漢墓や陜西省咸陽揚家湾漢墓の兵馬俑などが代表例として挙げられます。

兵馬俑坑は「秦始皇兵馬俑博物館」
として開放されている
 秦始皇兵馬俑坑は,1974年3月29日に当時の陜西省臨潼県西揚村での発見が最初と言われています。 いろんな本を読むと,それ以前にも陶俑らしきものがちょくちょく出てたようですが,地元の人々はあまり気にしてなかったようです。  その後大規模な調査により,この地が古代文明史上の偉大な発見だったことが明らかになり,「世界八番目の不思議」や「考古学における20世紀最大の発見」などと賞賛されるようになりました。

 日本では佐賀県の吉野ヶ里遺跡が似たようなもので,工業団地を造成しようとして文化財発掘調査が行われ,大規模な遺跡が発見されました。 吉野ヶ里の地元の人達も,それまでいろんなモノが出土してたようですが,あまり気にかけてなかったらしいとのこと。

 閑話休題。 発見された秦始皇兵馬俑坑は,驪山陵(りざんりょう)とも呼ばれる始皇帝陵から東に約1.5km離れたところあります。 坑(地下室)は全部で4つあり,この4つのユニットで宮城を警護する近衛兵を構成していると考えられています。 発見された順番に1〜4号坑と呼ばれており,このうち1号坑は最も規模が大きく, 陶俑,陶馬が6,000体以上,戦車も50余輌出土しており,全軍の右翼を守っています。 それぞれの出土品から2号坑は左翼,3号坑は軍の幕僚を意味するものとの説が有力です。 4号坑からは何も出土しませんでしたが,構成からの想像では全軍の精鋭部隊の中軍が構成されていたのではないかと考えられています。

 それではまず,4つの坑の中で最大規模の1号坑にご案内しましょう。



 


(上)篆書体の「秦兵馬俑壱号坑大廳」
(下)入口正面にある1号坑の建物

1号坑入ってすぐの総合案内(総覧版)
東西230m,南北62mとの記述がある

 1号坑には「秦兵馬俑壱号坑大廳」の看板がある。 「廳」は「庁」の旧字体で家を意味することから,坑を覆う館の意。 案内表示は中国語(中文)と英語が併記されている。  我々日本人には中国語(中文)のほうが馴染みやすいかも。



1号坑全景(の一部) 手許のカメラに収まりきれなかった

 スケールの大きさは驚愕に堪えない。 この写真は坑の東側から撮影したもので,左が南,右が北,手前〜奧方向(長手)が東西軸上にある。  この右翼軍は,前衛,本陣,後衛そして両翼の4つの部隊から成っている。
 前衛はこの写真の手前側で,1列68体が3列横隊を成した204体の兵俑が護っている。 その後には夥しい数の陶俑や陶馬が,東西方向に掘られた幅3.5m,長さ100m以上の9本の通洞に, 馬4頭立ての戦車と共に東に向いて4列縦隊を成して本陣を形成している。
 本陣両サイド(南北の外側)にはそれぞれ通洞から約2.4m外側に別の通洞が東西方向に掘られ,2列の兵俑が並んで両翼を護っている。 最も外側の兵俑は,それぞれ本陣を背にして南北方向を向いている。



1号坑内部の概況説明板 こちらの記述は東西210m,南北60mとなっている

 1号坑の大きさをあれこれ調べてみたが,確固たる数値がわからない。 現地の案内でも,総覧版 と坑内の案内で数値が違うほどである。 手許の書籍でも出典がバラバラなのか, それぞれに数値が異なっている。 こんなのに拘るのは日本人だけ? まぁ,これは大陸の大らかさか,大目に見てあげましょう。

微妙に異なる1号坑のサイズ
出 典東西長さ[m]南北長さ[m]面積[平方m]
現地案内
(総覧版)
23062-
現地案内
(上の写真版)
2106012,600
地球の歩き方
(39)西安とシルクロード
2306214,200
秦の始皇帝陵の兵馬俑
(日本語版)
2106212,600
西安の名所旧跡
(日本語版)
2106012,600
西 安
(日本語版)
2306214,260
中国悠遊紀行
(3)始皇帝陵と兵馬俑坑
約 210約 60-
秦始皇兵馬俑博物館
(中国語版)
2306214,260




9列ある幅3.5mほどの通洞には4列縦隊で兵俑が並んでいる

 本陣を成す兵俑。 手には槍や戈(か)などを持っていたと考えられる。 それぞれの顔立ちや表情が微妙に異なっていることから,陶俑や陶馬は1体毎に丁寧に作られたのだろう。 陶俑や陶馬の作成に失敗した者は, 容赦なく殺されたとも言われている。 陶俑の高さは1.78〜1.96m,平均すると1.8m程度とのこと。 この時代(紀元前221年頃)の平均身長はこれほど高くなかったであろうことから,軍勢を強調するために陶俑を大きめに作ったという説が有力。



4頭立ての馬の後の空間は木製の戦車があったところ

 4頭の馬の後には戦車があったが,長い年月が風化させてしまい,今ではその姿が失われている。 戦車は木製で,左翼が弓,右翼が矛を持ち,中央が4頭の馬を操る3人乗り, 単轅両輪で轅(「エン」と読む,訓読みは「ながえ」,車の舵棒の意)の長さは4m弱,車輪は39本(30本という説もある)のリムがあり,直径は1.5mほどだったらしい。


 現在の秦始皇兵馬俑坑の所在地は西安市臨潼区西揚で,西安の中心部から北東に 30km 程のところに位置します。 1990年に西安臨潼高速道路(西臨高速公路)が開通したことにより,今では西安からの交通アクセスが便利になりました。  「中華人民共和国一九九七年全国県級以上行政区画変更情況」などのサイトによると,以前の臨潼県は1997年6月25日に西安市の1つの区に変更されています。(日本の官報のようなものにあたる中国の「国函 [1997] 52号」による。)

 それでは,次に2号坑にご案内しましょう。 外は少しばかり雨が降ってます。


1号坑後方(西側)の陶俑や陶馬 2号坑へはここから通路が続いている


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