China Report 2.4

秦始皇兵馬俑博物館
〜その4〜

1〜3号坑同様美しい篆書で刻まれている「秦始皇帝陵文物陳列庁」

 秦始皇兵馬俑博物館で公開されているのは,これまでに紹介してきた3つの坑です。 実はもう一つ,3号坑の東側で4号坑が発見されたのですが,中味は空っぽでした。  1号坑は全軍の右翼に,2号坑は左翼に位置するのですが,4号坑は歩兵と車馬による陣容で全軍の中央部に位置し,軍幕である3号坑を護る役割だったであろうと言われています。


世界遺産は中国の誇り

 4号坑が空っぽだったのは,始皇帝の埋葬に間に合わなかったから,或いは秦の末の争乱によって未完成に終わったなど諸説ありますが,真偽のほどはわかりません。  中味のない4号坑は,公開されていませんでした。

 3つの坑の他には,秦始皇帝陵文物陳列庁があります。 ここには,1987年12月にユネスコの世界文化遺産に登録された「証」があり,その前で多くの人々が写真を撮影していました。  広大な中国でも世界遺産は彼らの誇りなのでしょうね。

 陳列庁の「表札」は,1〜3号坑同様,美しい篆書(てんしょ)体で書かれています。 篆書体は印鑑などによく使われますが,この書体が確立したのが秦の始皇帝の時代です。 始皇帝は, それまで国の各地でバラバラだった文字の書体ををこの篆書体に統一し,「泰山刻石(たいざんこくせき)」という碑に残しました。 この「表札」の篆書体は,泰山刻石の書体にも似ている感じです。

 秦始皇帝陵の西側の車馬坑で発見された1組(2輌)の銅車馬など,この周辺で出土した文物が展示されている陳列庁をご案内しましょう。



 
銅車馬1号車である立車 後述の2号車を護る役割といわれている

 1980年12月,始皇帝陵の西20m付近の地下8mほどの車馬坑から発見された青銅製の車馬を復元したもの。 車馬坑は「巾」状の形で,総面積が 3000平方m程度。 発見された車馬は, 天子(皇帝)が国の各地を巡幸するための車輌群である車駕の一部と見られている。 当時の天子は巡幸の重要度により,大駕(81輌編成),中駕(36輌編成),小駕(9輌編成)に分けており,発見された銅車馬群は中駕との説が有力。  車馬坑では5つの小さな坑から2輌1組の銅車馬が5組(10輌)出土し,最初に発見された1組(2輌)がその後8年かけて復元され,1988年から公開されている。

 この傘付きの車馬は1号車と呼ばれ,長さ 2.25m,高さ 1.52mと概ね実物の2分の1の大きさで,総重量は 1061kg。 車の荷台の大きさは長さ48.5cm,幅74.0cmの横長で,出土時には荷台の内外から精巧な青銅弩や矢鏃,盾などが発見された。



安車と呼ばれる銅車馬2号車 皇帝またはその側近が乗っていたのだろうか

 この2号車は,長さ 3.17m,高さ 1.06mで,1241kg の重さがある。 車上の部屋は,長さ88cm,幅78cm で,内部は前後2室に分かれている。 前室は後室に較べてやや小さいが, 窓があり外部との連絡要員が乗っていたものと考えられる。 後室は四方を閉塞されており,上部には日よけのような覆いがかけられている。 後部には乗降用の扉が付いている。

 1号車,2号車共に単轅両輪の4頭立てで,馬の銅俑は体長1.2m,高さは0.72m。 車馬と一緒にそれぞれ御者の銅俑が1体出土した。 両車馬とも金銀の装飾品で飾られており,朱紅,淡紅,緑, 若竹,藍,薄藍,白,褐色など様々な染料による紋様で彩色されている。




1号車の荷台から出土した方壺(左)と2号車の部屋から発見された方壺(右)

 左の方壺は1号車荷台の右前の角から出土した。 高さ14.5cm,底部は長さ12.7cm×幅6.1cm。 全体が白色で,底には「戊」の文字が刻まれている。 出土時, この方壺の中には3つの銅鈎(カギ状のフックのようなもの)が入っていた。

 右の方壺は2号車の後室の南東の角から発見されたもの。 底部の長さは12.6cm,幅が5.8cmと左の方壺とほぼ同じサイズだが,高さは19.2cmでやや背が高い。 この方壺も白色で,底部には「丙」の一文字がある。  内部には緑色の粉末状のものが付着していたことから,酒または水などの液体を入れる器として使われたものと推定されている。




埴輪のような馬の陶俑?(左)とやや小型の兵俑群(右)

 銅車馬や方壺の他にもこのような出土品が展示されていたが,説明を見つけきらなかったので,詳細は不明。 写真撮影は容認されていたが,出土品保護の観点から照明を落として展示していることを考慮すれば, フラッシュを使った撮影は論外だろう。 編集部はもちろんノーフラッシュで撮影した。(お陰でブレ写真が多数あったが:笑) これらの展示品に関して,秦始皇兵馬俑関係の書籍やウェブサイトを探して回ったが, 残念ながら有力な情報は見つからなかった。


 秦始皇兵馬俑博物館の1号坑,2号坑,3号坑,そして文物陳列庁を紹介してきました。 どれをとっても,今から2000年以上前の作品とは思えないほどの素晴らしさです。

 今回は時間の関係で秦の始皇帝陵には行きませんでしたので,ここで少しばかりこの兵馬俑坑の「スポンサー」である始皇帝について解説しておきましょう。

 紀元前221年に始皇帝と名乗った彼は,紀元前259年の生まれ。 紀元前247年,荘襄王の没後13歳で王位に即位しますが, その後9年間の実権は宰相呂不韋(りょふい)らに握られました。


車窓から見た秦始皇帝陵

 紀元前238年,22歳の時に親政を執るようになると呂不韋らの勢力を退け,自らの権力の基礎固めとして李斯(りし)を宰相に起用します。 彼は富国強兵策を進め,戦国時代の七雄であるライバルの斉,楚,燕,韓,魏,趙の六国を滅ぼし天下を統合する李斯の作戦を採用し,紀元前236年から東に向けて兵を出しました。  紀元前221年,六国を滅ぼした秦は遂に中国史上最初の統一的中央集権制の国家である秦王朝をたてます。 始皇帝は法律の制定,文字や貨幣,度量衡の統一, 更には当時の馬車の車輪の幅を統一して道幅を定めるなど,当時の経済成長や文化交流に大きく貢献しました。

 始皇帝陵は始皇帝が即位した紀元前247年から造営が始まり,崩御した紀元前210年になっても完成していなかったといわれています。 秦始皇兵馬俑は始皇帝陵の副葬の一部とみられ, 今世紀における考古学上の重大な発見の一つで「世界8番目の奇跡」などとも称されています。

 広大な俑坑からは,これまでに2000体を超える陶俑・馬俑や,青銅製の武器や兵器などが約4000点出土しています。  現在も発掘調査は続いており,全ての調査が終わる頃には出土する兵俑や馬俑は 7〜8000体にのぼるのではないかとの説もあります。 今後も新たな発見があるかもしれません。


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