China Report 3.6

乾 陵
〜高宗と則天武后の合葬墓〜

「唐高宗与則天皇帝合葬之墓」
の説明がある乾陵の碑
 西安から北西に 90km あまり,西安の西にある咸陽からでも 50km 余り,陜西省乾県の北 6km ほどに位置する広大な陵墓,これが唐高宗と則天武后が葬られている乾陵です。  中国の数ある陵墓の中でも夫婦共に皇帝となり,その夫婦を合葬墓に葬っている陵墓は,唯一ここ乾陵だけです。

 乾陵は唐時代の典型的な陵墓で,この地にある石灰岩質の梁山の地形をうまく利用しています。 梁山の山嶺は北に1つ,南に2つあり,最も高い北峰が標高 1047m(1047〜1048mのさまざまな数値が「出回って」いますが・・・)で, この峰の真下(地下)に墓室が造られています。 北峰に山頂から南に眼を向けると,600mほど離れたところにやや低い(標高 980〜1000m程度?)東西2つの南峰があります。  2つの南峰の頂上にはそれぞれに土製の闕楼があり,遠くから見ると女性の乳房のように見えることから「乳頭峰」とも呼ばれています。 この乳頭峰は,天然の門戸を形成しており, 乾陵は唐時代の陵墓造営の基本である「山に拠り添い陵を成す」のみならず「山に拠り添い闕を成す」陵墓ともいえるでしょう。

 500mほどの長さがある乾陵の参道(神道)は,2つの南峰の間を通り北峰に向かって伸びています。 この神道の両側には,陵墓を護るようにさまざまな石像や碑が並んでいます。

 始皇帝陵など秦の時代の陵墓は,東が「正面」でした。 これはアンコール・ワットなどに代表されるクメール様式の寺院にもみられる特徴です。 唐の時代になると,陵墓の「正面」は南になります。  この特徴は漢の時代以降に見られるもので,儒教が国教となった影響ではないかといわれています。

 それでは,広大な梁山一帯に拡がる乾陵を散策し,唐の時代にタイムスリップしてみましょう。



 
【北峰】
神道から北方向に梁山の北峰を望む。 乾陵の墓室はこの峰の真下に造られている。 神道の両脇には,陵墓を護るが如く儀仗隊の役目をなす文武重臣の石人が配置されている。


 
【乳頭峰】
神道から北峰を背に,正面の南方向を望むと東西2つの南峰が天然の門闕を成している。 神道の両側にある石人は10対,その向こう(南側)には5対の石馬・馬佚(ばいつ)が陵墓を護っている。


【無字碑】
則天武后が自分の功績を記念して建てたもの。 この碑には文字が1字も無いことから「無字碑」と呼ばれているが,これには,己の功績や徳行はどんな文字にも書き著せないからという説や, 己の功績や過失は後世の人が評価するものとして何も刻まなかったという説などがある。



【王賓群像】
「六十一蕃臣」は,高宗が崩御した際の葬儀に列席した61か国の外国代表の像。 神道を挟んで東側に29体,西側に32体が並んでいる。 この61体の王賓像は頭部が無いが, これは清の時代,この地を襲った干ばつがこれらの王賓像の祟りだとして,地元の人達が像の首を落としたという伝えがある。



 
【北峰から乳頭峰を望む】
梁山北峰頂上から南方向を望むと,自然の門闕を成す乳頭峰が見える。 この日は天候が良くなかったので,やや霞んでいた。 梁山北峰には神道から登山道があり, 歩いて15〜20分程度で登れるが,足下の状態は良くないのでスニーカー必携。 数十元(交渉次第?)出せば,馬に乗せて頂上まで連れて行ってくれる。


【翼獣】
乳頭峰の間付近の神道で陵墓を護る翼獣。 後漢の時代以降,墳墓を悪霊から護る(辟邪)ために陵墓の参道の両側に鎮墓獣として一対の石獣を置くようになった。 乾陵には, この翼獣の他にシルクロード経由で西域から伝わったといわれる駝鳥の石像もある。



 神道の両側に並ぶ鎮墓獣は,霍去病墓の石像群が最初のものとされています。 陵墓を護る鎮墓獣は,その後遣隋使や遣唐使を通じて日本に伝わり, 現在各地の神社で見られる「阿吽」の狛犬の祖になったといわれています。

 数ある陵墓の多くは盗掘されていますが,ここ乾陵は盗掘された形跡は無く,比較的保存状態が良いとのことです。

 まさかこんなところで遇うとは思ってもなかったのですが,乾陵の「境内」では駱駝の姿も見られ,唐の時代のシルクロード交易が盛んだった雰囲気を醸し出していました。


(左)乾陵内にある郵便局「乾陵集郵亭」 (右)「観光資源」の駱駝,乗って写真を撮ると10元


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