China Report 4.4

河南省・龍門石窟
〜古陽洞〜

龍門石窟でも南部の方に位置する古陽洞

 龍門石窟の中で最も古いといわれる古陽洞。 別名「老君洞」とも呼ばれているこの洞は、南北1kmに拡がる龍門石窟の中でも南の方に位置します。 一般的に、龍門石窟には北側から入る場合が多いので、 概ね終わり頃に辿り着く洞です。

 それぞれの石窟の近傍には、石刻された中国語の案内表示があります。 秦始皇兵馬俑博物館のように英語の案内は不足していた感じ。 漢字が理解できる民族には不自由ないでしょうけど、 漢字文化圏以外の皆さんは不自由するかもしれません。 古陽洞の案内表示を読んでみると

 太和十七年(西暦493年)、龍門石窟の中で最も早く造営が始まり、中央に釈迦牟尼(しゃかむに)像、左右両側に菩薩像がある。  北魏の時代の代表的な書法である "龍門二十品" のうち19の作品がこの洞に納められている。 龍門石窟の中でも様々な彫刻が見られるところ。

 というようなことが書いてあります。


釈迦牟尼像の両側に菩薩像が見える

 古陽洞の大きさは、高さが約11m、幅が7m程、そして奥行きは14m足らずで、外観は馬蹄形です。

 洞の中を見ると、案内表示のとおり中央に釈迦如来の座像があります。 この本尊は、この洞窟の造営を始めた比丘(高僧)慧成によるものとのこと。 そして本尊の左右には、 脇侍菩薩の立像が中央を向いています。 「比丘」とは、仏教に関する古代言語である梵語の Bhiksu、あるいはバーリ語の Bhikkhu の音を漢字に直したもので、剃髪して袈裟を身につけ仏教における正式な男性出家修行者のことを指す、一種の役職名です。  大僧とも呼ばれることもあります。 仏教の出家信者で女性の場合は、「比丘尼」と呼びます。

 閑話休題、本尊を取り巻く古陽洞の壁一面には、夥しい数の仏龕(石壁に刻した仏像)が並んでいます。 中央の釈迦如来座像を見て右側の北壁、左側の南壁とも、よく見ると大きな仏龕が3階建の窓のイメージで並んでいるようです。  一番上の上層(第三層)、その下の中層(第二層)には、北・南とも「窓」が4つずつあります。 そして一番下の下層(第一層)では、北壁に3つの「窓」が、南壁には2つの「窓」があり、それぞれに大きな仏龕が刻されていることがわかります。

 さまざまな記録によると、この洞窟は493年頃にまず現在の洞窟上部から造営が始まり、505年頃までには中央の釈迦如来座像と左右の菩薩像、それに第三層から上の天井まで部分が完成。 その後509年頃から床面を掘り下げて第二層部分が、 さらに517年頃から第一層の部分の造営が始まったようですが、526年頃から工事が停滞しているようです。 最終的に現在の形になったのがいつ頃なのか、いろいろと調べてみましたがよくわかりませんでした。



古陽洞の北壁
4つの「窓」は上層部で龍門二十品の多くはこれより上方に刻字、その下は中層の「窓」


古陽洞の南壁の上層部〜中層部
龍門二十品のうちの8点は南壁上層付近より上部の随所に刻されている


 龍門には各石窟に多くの造像記が刻されており、その数は 3,600以上とのこと。 中でもこの古陽洞は造像記が集中しているところで、 一説によるとその数は650以上ともいわれています。

 造像記とは、中国で仏教が流行し始めた北魏の時代に造営された各地の石窟寺院に刻された仏像群に関して、その造仏の由来や発願者、 製作者や時期(年月)などを主に楷書体で刻したものです。 造像記は歴史学的に見ると記録としての資料価値がありますが、 一方で美術的観点からは、北魏時代の文字(楷書)の特徴を表現したものでもあります。 中でも美術的に優れた20の造像記を、 書道の愛好家達は『龍門二十品』(=造像記ベスト20のような感じ)と呼んで書の手本にしています。

 次のページでは、北魏の時代の代表的な書法を表現した『龍門二十品』についてご紹介しましょう。


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