China Report 4.9

河南省・龍門石窟
〜伊闕仏龕之碑〜

 賓陽三洞の中洞と南洞の間の摩崖に、『伊闕仏龕之碑(いけつぶつがんのひ)』という碑文が刻まれています。 この碑文は、初唐の頃の書道の三大家の一人、 チョ遂良(596〜658:チョ=衣へん+「者」の旧字体->右の字のとおり)の作によるものです。


伊闕仏龕之碑の案内表示
 右の写真の『伊闕仏龕之碑』の案内表示によると、

 唐の太宗の第4子である魏王・李泰が、母の文徳皇后・長孫氏の功徳を称えた碑文を刻んだもの。 唐の宰相・岑文本(しんぶんぽん)の撰文で、チョ遂良の筆によるもの。

と解説されており、魏王・李泰がチョ遂良に命じて書かせたものです。 

 別名「三龕記」とも呼ばれる、高さ5.0m、幅1.9mの『伊闕仏龕之碑』は、288cm×190cm の碑形部分に 51字×32行(近拓本では32〜33行ともいわれる)の文字が刻まれており、字の大きさは4cmほどの大きな文字で、チョ遂良の書碑の中では最も大きいものです。  碑文には紀年の文字が確認できませんが、金石学の始祖とされる宋時代の欧陽脩がまとめた「集古録」(歴代の金石を集めた1000巻に及ぶ壮大な史料だったが、本体は現存せず、全10巻の跋尾のみが残る)の記述によると、 撰文は唐時代の宰相:岑文本(しんぶんぽん:595〜645)で、唐の時代の貞観15 (641) 年の建碑であることが確認されています。

 前のページで、唐の時代の魏王・李泰が賓陽南洞を修復したことを書きましたが、この『伊闕仏龕之碑』は、賓陽南洞が完成した年と同じ年(どちらも貞観15 (641) 年)に建碑されています。 チョ遂良といえば、 当時の能筆御三家(あとの二人は 虞世南 と 歐陽詢)の一人で、今で言うところの売れっ子人気デザイナーですから、当時の魏王・李泰の母の文徳皇后・長孫氏への畏敬の念と、賓陽三洞への思い入れが、いかほどのものだったかがよく判ります。


伊闕仏龕之碑(部分)

 ここで、『伊闕仏龕之碑』の筆を執ったチョ遂良について、プチ解説しましょう。 彼は22歳の時(618年)に唐の「政府」に入り、武器の管理をする鐙曹参軍から役人生活をスタート。 彼は当時から書に巧みだったので、父の友人だった歐陽詢に大事にされました。  636年、当時唐の2代皇帝・太宗に仕えていた先輩の虞世南が死去した時に、重臣であった魏徴から推薦を受けて太宗皇帝の書道顧問(侍書)になり、それ以降は太宗皇帝から深く信頼されるようになりました。 チョ遂良は、若い時期には歐陽詢から薫陶を受け、 後年には王羲之を祖述したとされ、初唐の三大家の中でも楷書にかけては「歐(陽詢)・虞(世南)も頭を下げる」と言われるほどでした。

 彼の代表作は、このページの『伊闕仏龕之碑』(641)はもとより、この翌年に『伊闕仏龕之碑』と同じく岑文本の撰文による「孟法師碑」(642)、西安の大慈恩寺・大雁塔に現存する「雁塔聖教序」(653) などがあります。 書道鑑賞的な眼で観ると、 この『伊闕仏龕之碑』は、端正な楷書に中に隷書の運法が見られ、後の「雁塔聖教序」に較べると、剛健かつ素朴な雰囲気が漂うものです。

 なお、一部ではこの『伊闕仏龕之碑』が龍門二十品のひとつであるとも解釈できる向きもあるようですが、本サイトの 「龍門二十品」のページ のとおり、北魏時代に刻された作品のうちの20の碑が龍門二十品であり、唐の時代に刻されたこの『伊闕仏龕之碑』は、 龍門二十品には数えられていないことを付しておきます。


 ということで、賓陽三洞の探検はこれでオシマイ。 この次は、蓮の花の石刻が美しい蓮花洞に行ってみましょう。


前のページへ 西安・洛陽旅行記
トップに戻る
次のページへ