Report 49

緊急解説  クーデター 2006
本ページは編集部が独断で分析したものであり,一般的な政情分析とは異なる部分があることをご承知置き下さい。  また,ページの中で不適切な表現などがありましたら,ご指摘下さい。

 2006年9月19日(火),タイ現地時刻の夜(22:00頃?),タイ陸軍の戦車と部隊が外遊中のタクシン暫定首相の官邸を包囲,軍隊の一部は官邸内に入場,同時にバンコク市内のテレビ局を「制圧」するなど,事実上の「クーデター」が発生しました。  日本をはじめ,タイ国外の多くのメディアは「クーデター」の発生に,当初は結構緊張感を持って報道していましたが,その後は現地に混乱が無い様子などから,トーンダウンした感でした。

 編集部では,最初に入った20日(水)朝刊の新聞1面の見出しに緊張しましたが,記事の内容やその後のテレビの報道などから,2006年9月20日の日記 に記した如く,『日本人学校は恐らく休みになるだろうけど,過度の心配は無いだろう』と分析しました。

 そもそも,この「クーデター」はある意味,起こるべくして起こったものとも解釈できます。 というのは,タイではこのところ首相を務めたタクシン・シナワットラー氏の「横暴ぶり」が一部の国民の反感を買っていたからです。

 日本では,欧米や周辺諸国以外の大統領や首相は案外知られてないものです。 今回の「クーデター」の引金役(?)ともいえる,タクシン・シナワットラー氏(一部では「チナワット」との記載もありますが, このサイトでは「シナワットラー」と表記します)の紹介を中心に,今回の「クーデター」の顛末を解説してみましょう。


 タクシン・シナワットラー(以下「タクシン」と記する)は,1949年タイ北部のチェンマイの各家系華人の家に生まれました。 中国語名は「丘達新」。 1973年タイ警察士官学校を卒業してタイ王立警察部に入り,警察官となります。 その後アメリカに2回留学し, 刑事司法博士 (Doctor of Criminal Justice) を取得し,警察中佐 (Police Lieutenant Colonel; 略称 Pol.Lt.Col.) の階級になっています。 タイでは,軍人と警察官は在職時代の階級を名前に冠することが一般的で,タクシンも自らの名前に警察中佐の Pol.Lt.Col. と刑事司法博士の Dr.を冠しています。

 タイでは,今でもそうなのですが一般的に警察官の給与は決して高いとは言えないため,中には副業を営んでいる警察官もいます。 タクシンもご多分に漏れずその一人であり,様々な副業に手を出しては一喜一憂していました。


カンボディアの通信会社 CAMSHIN の看板
CAMSHINはタクシンのShin Corporationの関連会社
(2003年10月撮影)
 1987年,警察官を辞職して Shinawatra Computer & Communications(後の Shin Corporation)を設立,主に警察向けにコンピューター関係のサービスを始めます。 その後1992年,携帯電話の営業権を得て AIS (Advanced Info Service) の経営に参画,これが大当たりして巨万の富を手にすると,政治の世界に興味が湧いたのか, 1994年に当時のバランタム党に入党しました。 一度外務大臣に指名されましたが,「大企業の株主は大臣になれない」という憲法に違反するとの指摘で大臣職を辞しています。 この時に自ら所有する株の名義を妻や自分の側近の名義に変更したり, 関連会社名の「シナワット」や「シナワットラー」をすべて「シン」に変更しました。 この時の株の名義変更は,後刻「所得隠し」との批判を受けることになります。

 政治の世界で一旗揚げたかったのでしょうけど,彼が所属するバランタム党は 1997年に内部崩壊してしまいました。 そこでタクシンは1998年に新たな政党,タイ愛国党(タイ・ラック・タイ)を創設して2001年,遂に政権を取りタイ王国の第31代首相の座に登り詰めたのです。


 タイの首相となったタクシンは,30バーツ払えば誰でも受診できる「30バーツ医療」や,日本の大分県の「一村一品」を模倣した「OTOP (One Tambon One Product)」運動など,低所得層を支援する政策を進めました。 また,軍や警察を総動員した麻薬取り締まりの強化や, ナイト・スポットの営業時間制限など清潔感あふれる政策も推進しました。


2003年のAPEC開催前後にはバンコク都内で
このような看板が多数見られた

 彼の絶頂期は2003年10月の APEC でしょう。 本サイトの APEC期間中のバンコク のページで緊急取材として紹介しましたが,タイ王国の威信をかけた一大イベントでした。 当時の首相タクシンがホスト役を務め, プミポン国王をはじめ王族も揃って各国からの代表団を歓待し,その様子はテレビで大々的に報道されました。

 一方で,日本ではあまり知られていませんが,マレーシア国境・深南部のパッターニー,ヤラー,ナラーティワートの3県を中心とした地域では,それまで活動を潜めていたイスラム教の勢力が,タクシン政権の下で活動を活発化し始めました。 活動は徐々にエスカレートしていき, 主要都市や鉄道を狙った爆弾テロや公務員・教師・仏教の僧侶などをターゲットにした襲撃事件などが連日のように発生しています。 ここ数年,深南部では学校の教師を辞職する者や,志願者の激減など少なくとも教育面だけでも深刻な問題に直面しているようです。

 麻薬取り締まりや深南部の反政府勢力に対する政府の掃討活動では,無罪の者が逮捕・狙撃されたり,政府側がイスラム教のモスクを攻撃し多数の市民が犠牲になるなど,一部で行き過ぎの面も見られ,内外からの批判を浴びました。

 この他に,政権の主要ポストに自分の知己や身内の人間を置く閣僚人事をはじめ,長男が通う大学の試験でのカンニング疑惑や,次女の大学入試における受験資格を巡るトラブルなど,マイナスイメージも数多くありました。 12月の誕生日 に恒例の演説をされるプミポン国王は, 毎年のように「他人の忠告には耳を貸すように」あるいは「己の考えが必ずしも正しいとは限らない」などを例に,暗にタクシンの我が儘を是正する立場をとっていました。 しかし,聞く耳を持たないタクシンの「横暴ぶり」に業を煮やし,王宮や離宮に呼びつけて何度か叱責されていたという報道もあります。

 2006年1月,タクシン一族は所有していた Shin Corporaion の株式の一部をシンガポールのテマセク社に 733億バーツ(約2200億円)で売却しましたが,この売却益に対する課税は僅かに 2500万バーツ(約7500万円)でした。  まぁ,タイは相続税の制度が存在しない国なので,この売却益に対する課税も合法的なのかもしれませんが,課税率がたったの 0.03%だったためタクシン一族は厳しい批判を浴びることになります。

 政権を追われたタクシンは 2月24日に下院を解散し 4月2日に総選挙を実施しましたが,野党は候補者を擁立せずに総選挙をボイコット。 結果的には与党のタイ愛国党(タイ・ラック・タイ)が勝利しましたが,タイ国内の400の選挙区の中で,39選挙区では有効票数が規定の数に達しなかったため, 再選挙となりました。 タクシンは 2006年4月4日にプミポン国王に対して退陣を表明し,次期首相が決まるまで休養に入ることになっていましたが,実質的には暫定首相としてタクシンが職務を行っていたので,国民から更なる反発を招いていたものです。


 以上のことから,タクシンが暫定首相として国連総会で演説するためにニューヨークの国連本部に出かけていた「隙」に,イスラム教徒であるソンティ陸軍司令官が陸軍を主力とする三軍による「クーデター」を起こしたことは,ある意味当然の帰結ともいえるでしょう。

 タイには国王を総帥とする陸海空の三軍があり,1997年発布のタイの憲法第69条に,国民の義務として「国防」,「納税」そして「兵役」が明記されています。 従ってタイには徴兵制度があり,男子は18歳で登録し,21歳での徴兵検査(健康診断)の後,兵役に就くか否かが抽選で決まります。  従業員が兵役に就くことが決まった場合,その職場では労働者保護法により休暇と最低60日分の賃金を支給しなければならないとのことです。


タイ陸軍のパトロールカー (2002年11月撮影)
 タイの人々にとって,軍隊は警察以上に身近なもの。 治安を守る警察はタイ国民に銃を向けることはあっても,国を護る軍は基本的に市民には銃を向けないことや,徴兵制度があるため,家族や身内など軍に籍を置いていた人間が身近にいることなどがその理由です。 「クーデター」の報道が世界中を駆け巡って一段落した後, 市民が記念撮影をしたり兵士に花を贈る姿は,我々日本人には理解し難い面もあったようですが,このような背景があるのです。 (この辺りの事情はバンコク在住の先輩特派員からリポートして戴きました。)

 ここまで書くと,100%タクシンが悪者のようですが,首相在職中の「30バーツ医療」や「OTOP」の政策は低所得層から絶大な支持を得ており,国民の中には「タクシンは必ず帰ってくる」と信じている人々も少なくないとか。 まぁ,今は旅客機の製造から手を引いた航空機メーカーの日本進出に関連して逮捕された某国の首相も, 一部では熱狂的な支持があったことを思い起こせば,国は違えど似たようなものでしょうか。

 いずれにせよ,タイ王国におけるタクシンの時代は幕を閉じました。 今回の軍による「クーデター」は,民主主義国家としてまだ稚拙な部分かもしれませんが,このやり方は歴史上植民地にならなかったタイという国のローカル・ルールなのかもしれません。  今後誰が政権を担当してどのような政策を進めるのか,世界の注目の的であり,当面のタイの悩みどころでもあるでしょう。

 本ページの解説が,読者の皆さんにとって,今回のタイの「クーデター」の理解の一助になれば幸甚です。 (2006年9月記)