China Report 4.5

河南省・龍門石窟
〜龍門二十品〜
 龍門石窟の中で最も古い古陽洞。 この洞には、前ページで触れたとおり多くの造像記が刻されています。 このページでは、これらの造像記を美術的観点から分析してみましょう。

 龍門石窟にある造像記の中でも北魏時代に刻されたものは、当時の書風を現在に伝える貴重な手本で、特に優れた20作は『龍門二十品』と称されています。  これらの造像記が書道の芸術作品として注目されるようになったのは比較的後年のことで、中国の清時代の乾隆期(乾隆帝:在位1735〜1795)以降です。 この時代の金石書家である黄易(1744〜1802)が、龍門石窟の造像記のうち「始平公造像記」「孫秋生造像記」「魏霊蔵造像記」そして 「楊大眼造像記」を4つの白眉として『龍門四品』と呼んだのが始まりのようです。 この四品は、その後、清末〜中華民国時代の書家である楊守敬(1839〜1915)が駐日公使の随員として来日した際に、 『学書邇言』などにより日本に伝えられました。

 1870年2月には河北・燕山出身の徳林(徳硯香)が、上述の『龍門四品』とは別に秀逸10作を選んで『龍門十品』を提唱しました。 そして、清末〜中華民国の時代に当時の書道の研究家などにより、黄易の『龍門四品』と徳林(徳硯香)の『龍門十品』をベースに更に6つの造像記を加えたものが『龍門二十品』として命名され、現在まで高く評価されているのです。  北魏時代のこれらの文字は魏碑体や龍門体等と呼ばれ、書の道を志す人は文字の歴史や書法を身につけるために、必ずと言っていいほど龍門の造像記をお手本にして字の練習をします。

 龍門石窟の古陽洞には『龍門二十品』のうち19作が存在しますが、ここに無い1作は「比丘尼慈香慧政造像記」で、古陽洞から300mほど北側の慈香洞に刻まれています。

 これらの造像記には、石仏や石窟を造った寄進者の名前が並んでいます。 寄進者は王族や功臣、洛陽周辺の地方役職者、比丘(正式な男性の出家修行者、高僧。大僧という場合もある。)や比丘尼(女性の出家修行者)など、さまざまな人達がいました。



 それでは『龍門二十品』の概要を示しましょう。 「誰が?」の欄の 赤字 は女性です。 北魏時代のこの当時、男性のみならず多くの女性も仏像や石像を寄進していることがわかります。
1.牛ケツ造像記
(ケツ=「」へんに「」)
495年(太和19年)66cm×34cm1行16字×7行
どこに?古陽洞北壁上部東側、入口に近い方、解伯達造像記 のすぐ上方
誰が?鮮卑系貴族である長楽王・丘穆陵亮夫人の尉遅(うつち)
何を?【本文表記】「彌勒像一區」
何のために?亡き息子牛ケツを供養するため
特記事項龍門二十品の中で、最も古い年紀を有する造像記。

2.一弗為張元祖造像記
(一弗造像記)
496年(太和20年)13cm×34cm1行3字×10行
どこに?古陽洞北壁上部中央、比丘恵感造像記 の上方
誰が?鮮卑系下級官吏である張元祖の妻一弗(いちふつ)
何を?【本文表記】「像一區」(釈迦像1体?)
何のために?亡き夫が直ちに仏の国に行けるように祈願
特記事項龍門二十品の中で、牛ケツ造像記に次いで古い年紀を有するもの

3.比丘慧成為始平公造像記
(始平公造像記)
498年(太和22年)89cm×39cm1行20字×10行
どこに?古陽洞北壁上段の最も外(東)側、入口に最も近いところ
誰が?発願者:高僧である比丘慧成(びくえじょう)
撰文者:孟達、 書者:朱義章
何を?【本文表記】「石像一區」(釈迦像1体?)
何のために?鮮卑系高官である亡き父の使持節・光禄大夫・洛州刺史であった始平公を供養するため
特記事項龍門二十品の中で、この造像記のみ陽刻(文字の部分を残してその周りを刻してあるもの)

4.北海王元詳造像記 498年(太和22年)
9月23日
78cm×42cm1行18字
×9行
どこに?古陽洞北壁最上部東側、牛ケツ造像記 のすぐ上方
誰が?造成者:献文帝第7子、孝文帝の異母弟である鮮卑系王族の元詳(げんしょう:476-504)
発願者:元詳の生母である高氏
何を?【本文表記】「彌勒像一區」
何のために?親子の長寿・健康、一族の繁栄などを祈願したもの
特記事項龍門二十品の中で北海王元詳母子に関する造像記は、他に北海王国太妃高造像記や比丘法生造像記がある

5.解伯達造像記 太和の時代13cm×37cm1行5字×14行
どこに?古陽洞北壁上層東側、始平公造像記 から大きな仏龕を1つ挟んだ内側の上方
誰が?漢族(?)の下級官吏で、伊闕の警備を担当していた解伯達(かいはくたつ)
何を?【本文表記】「彌勒像一區」
何のために?国家の繁栄・安寧、両親の長寿、一切衆生の幸せなどを祈願したもの
特記事項造像記に年紀の記載がないが、495年(太和19年)〜499年(太和23年)頃に造営されたものと考えられる


古陽洞北壁の造像記
1.牛ケツ造像記(ケツ=「」へんに「」)、 3.比丘慧成為始平公造像記(始平公造像記)、
5.解伯達造像記


6.魏霊蔵薛法紹造像記
(魏霊蔵造像記)
無年月91cm×38cm1行23字×10行
どこに?古陽洞北壁上層東側、始平公造像記 から大きな仏龕を1つ挟んだ内側で、解伯達造像記 のすぐ下方
誰が?河北・鉅鹿の漢族名家出身の下級官吏である魏霊蔵(ぎれいぞう)と、山東・河東出身の薛法紹(せっほうしょう)
何を?【本文表記】「石像一區」(釈迦像1体?)
何のために?皇道の永遠の興隆、一族の繁栄などを祈願したもの
特記事項造像記が記された時、魏霊蔵は陸渾県の功曹(人事担当官吏)であった

7.北海王国太妃高造像記 無年月40cm×24cm1行10字×5行
どこに?古陽洞北壁最上部、ドーム状の天井付近
誰が?献文帝第7子、孝文帝の異母弟である鮮卑系王族の元詳の生母である高氏(こうし)
何を?【本文表記】「像一區」(弥勒像1体?)
何のために?早くに世を去った孫の保を供養するため
特記事項高氏は、504年(正始元年)に、元詳と共に刑死していることから、これより前の造営と考えられる

8.楊大眼造像記 無年月95cm×41cm1行23字×11行
どこに?古陽洞北壁上層中央部、始平公造像記 から大きな仏龕を2つ挟んだ内側
誰が?西域(甘粛・成県)の氏族出身の猛者で、北魏6代皇帝・孝文帝に仕えて功績を残した将軍・楊大眼(ようたいがん)
何を?【本文表記】「石像一區」(釈迦像1体?)
何のために?亡き孝文帝を追善供養するため、信者会員の喜捨を集めて造営
特記事項孝文帝は499年(太和23年)に亡くなっていることから、500年(景明元年)頃のの造営と考えられる

9.比丘道匠造像記 無年月24cm×47cm1行7字×13行
どこに?古陽洞北壁上部中央、高樹解佰都等造像記 の上方
誰が?高僧である比丘道匠(びくどうしょう)
何を?【本文表記】「像六區」(仏像の種類は不明)
何のために?皇道の永遠の興隆、父母の成仏、自分自身への来世の果報などを祈願したもの
特記事項書き損ないや文字を書き足した部分が見られる「人間的」な造像記

10.鄭長猷造像記 501年(景明2年)
9月3日
50cm×35cm1行12字
×8行
どこに?古陽洞南壁上段の最も外(東)側、入口に最も近いところ
誰が?漢族の名家出身、北魏6代皇帝・孝文帝が南に攻めた時に功績があり、後に南陽太守・洛陽侯に除せられた中級官吏の鄭長猷(ていちょうゆう)とその妾の陳玉女
何を?【本文表記】「彌勒像」(弥勒像4体)
何のために?鄭長猷が、亡き父である演、亡き母の皇甫、亡き子供の士龍の供養のためにそれぞれ弥勒像を1体ずつ、そして陳玉女が亡くなった母の徐氏の供養のために喜捨供養した
特記事項龍門二十品の中では最も素朴に表現された造像記

11.孫秋生劉起祖等造像記 502年(景明3年)
5月27日
130cm×49cm1行39字
×13行
どこに?古陽洞南壁上層の最も外側の大仏龕の内(右)側
誰が?発願者:漢族出身の下級官吏で新城県の功曹だった孫秋生(そんしゅうせい)劉起祖(りゅうきそ)の二人がまとめた200人の中下級官吏や一般庶民
撰文者:孟広達、 書者:蕭顕慶
何を?【本文表記】「石像一區」(釈迦像1体?)
何のために?国の隆盛、自分自身の幸福などを祈願し、自分たちの父母を供養したもの
特記事項この造像記に記載がある撰文者の孟広達は、始平公造像記 の撰文者の孟達と同一人物との説がある

12.高樹解佰都等造像記 502年(景明3年)
5月30日
42cm×28cm1行14字
×10行
どこに?古陽洞北壁上部中央付近、一弗造像記 から小仏龕を挟んだ右下方、比丘道匠造像記 の下方
誰が?北斉の文宣帝・高洋 (529-559) の祖父である高樹(こうじゅ)と、漢族の庶民であった解佰都(かいはくと)が主宰した総勢32人の喜捨による
何を?【本文表記】「石像一區」(菩薩像1体?)
何のために?自分たちの祖先を供養し、一族の成仏祈願したもの
特記事項僅か3日前に完成した 孫秋生劉起祖等造像記 に書風が似ている

13.比丘恵感造像記 502年(景明3年)
5月30日(?)
19cm×45cm1行5字
×14行
どこに?古陽洞北壁上層中央やや内側、始平公造像記 から大きな仏龕を3つ挟んだ内側の上方
誰が?古陽洞の造営に深く関わったとされる高僧・比丘恵感(びくえかん)
何を?【本文表記】「彌勒像一區」
何のために?国運の隆盛や仏法の興隆、自分たちの祖先や父母の幸せを祈願したもの
特記事項この造像記の末の2行には、比丘法寧による造像記が付属する形で記されている


古陽洞北壁の造像記
2.一弗為張元祖造像記(一弗造像記)、 12. 高樹解佰都等造像記、 5.解伯達造像記
13.比丘恵感造像記、 8.楊大眼造像記、 6.魏霊蔵薛法紹造像記


14.太妃侯為亡夫賀蘭汗造像記
(賀蘭汗造像記)
502年(景明3年)
8月18日
50cm×35cm1行10字
×5行
どこに?古陽洞南壁最上部中央付近
誰が?鮮卑系王族の広川王・霊遵の祖母・侯氏(こうし)
何を?【本文表記】「彌勒像」(弥勒像1体)
何のために?亡き夫・賀蘭汗を供養したもの
特記事項龍門二十品の中で侯氏に関する造像記は、他に 広川王祖母太妃侯造像記 がある

15.馬振拝等三十四人造像記
(馬振拝造像記)
503年(景明4年)
8月5日
55cm×33cm1行15字
×9行
どこに?古陽洞南壁最上部外側、鄭長猷造像記 の右上方
誰が?信仰団体の主である漢族の庶民・馬振拝(ばしんぱい)と張子成(ちょうしせい)ら許興族34人
何を?【本文表記】「石像一區」(像の種類は不明)
何のために?北魏7代皇帝・宣武帝 (499-515) の長寿や国運の隆盛
特記事項龍門二十品の中には、この造像記でなく、唐時代の「優填王造像記」を挙げているものもある

16.広川王祖母太妃侯造像記 503年(景明4年)
10月7日
25cm×79cm1行6字
×22行
どこに?古陽洞南壁最上部内側、安定王元ショウ造像記 のほぼ上方
誰が?鮮卑系王族の広川王・霊遵の祖母・侯氏(こうし)
何を?【本文表記】「彌勒像一區」
何のために?幼い孫である広川王・霊遵の末永い隆盛と仏法の流布
特記事項夫・賀蘭汗を亡くし、幼い孫を広川王として育て、国を護らなければならない侯氏の仏教への篤い信仰心が滲み出ている造像記

17.比丘法生造像記 503年(景明4年)
12月1日
35cm×38cm1行13字
×11行
どこに?古陽洞南壁上層、最も外側の大仏龕の直下、孫秋生劉起祖等造像記 のすぐ(外)左側
誰が?古陽洞の造営に深く関わったとされる高僧・比丘法生(びくほうしょう)
何を?【本文表記】「像表情」(釈迦像1体?)
何のために?北魏6代皇帝・孝文帝、北海王元詳と母の高氏のを讃え、供養したもの
特記事項比較的整った文字の造像記

18.安定王元ショウ造像記
(ショウ=「火言火」の下
に「」)
507年(正始4年)
2月半ば
27cm×49cm1行9字
×13行
どこに?古陽洞南壁上部の最も内側、広川王祖母太妃侯造像記 の下方
誰が?鮮卑系の王族で、北魏3代皇帝・太武帝の長男である景穆帝の孫である元ショウ(げんしょう)
何を?【本文表記】「釈迦之容」(釈迦像1体)
何のために?亡き祖父母(景穆帝)及び父母を供養し、一族の成仏を祈願したもの
特記事項元ショウ(げんしょう)は次男であったが、兄の元安が早く世を去ったので、安定王を継いでいた

19.斉郡王元祐造像記 517年(熙平2年)
7月20日
40cm×37cm1行16字
×16行
どこに?古陽洞南壁上層の最も内側、安定王元ショウ造像記 の下方
誰が?鮮卑系の王族で、斉郡王となった元祐(げんゆう)
何を?本文に明確な表記無し(弥勒像?)
何のために?自分自身のためと思われる
特記事項元祐は、この造像記が完成した2年後の519年(神亀2年)正月に32歳で没したとされている


古陽洞南壁の造像記
17.比丘法生造像記、 11.孫秋生劉起祖等造像記、 19.斉郡王元祐造像記


20.比丘尼慈香慧政造像記 520年(神亀3年)
3月20日
39cm×38cm1行11字
×10行
どこに?古陽洞から300m程北側(下流)にある慈香洞
誰が?尼僧である比丘尼慈香(びくにじこう)比丘尼慧政(びくにえせい)
何を?【本文表記】「窟一區」
何のために?仏教の今後の繁栄や民衆の幸せを祈願したもの
特記事項この造像記は龍門二十品の中で、唯一、古陽洞に無いもので、北側の慈香洞に刻されている



 『龍門二十品』、如何でしたか。 1500年前の北魏の人々の思いや信仰心が伝わってきますね。 北魏の時代に造営された石窟は、古陽洞の他にもいくつかありますので、次のページで訪ねてみることにしましょう。


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