China Report 4.6 | ||||||||||||||||||||||||||||
河南省・龍門石窟 〜賓陽三洞の歴史〜 | ||||||||||||||||||||||||||||
北魏の後の王朝・北斉の時代の学者である魏収(506-572)が編纂した北魏時代の正史で、中国二十四史の1つでもある「魏書」の中に、北魏の時代までの仏教や道教の歴史を記録した「釈老志」があります。 この中に、 『景明(500-503)初頭、時の北魏7代皇帝・宣武帝が、大長秋卿(宦官の長官)である白整に命令し、亡き父6代皇帝・孝文帝と亡き母皇太后・高氏のために、洛陽の南の伊闕に雲岡石窟に準じて2つの石窟(現在の賓陽中洞と賓陽北洞)を造らせた。 ところが造営する石窟の規模が余りにも大きすぎたので、大長秋卿の王質が費用がかかりすぎることに困ったことを申し出ると、正始2年(505年)に計画を縮小し、別の場所〜現在の鞏義石窟寺〜で石窟の造営を再開した。 その後、永平(508-512)の時代に当時の7代皇帝・宣武帝のための石窟を追加(現在の賓陽南洞)して造営することとした。』 という記述があります。 | ||||||||||||||||||||||||||||
【龍門賓陽洞と鞏義石窟寺の関係】 ここで、龍門石窟の賓陽三洞と鞏義石窟寺の関係について調べてみましょう。 鞏義石窟寺は、龍門石窟から東に 40km あまりに位置する鞏義市にあります。 鞏義市は、かつて鞏県でしたが 1991年に河南省の省都・鄭州市に属する県級市となったものです。 この鞏義市中心部から北東方向に、伊洛河(龍門石窟が面する伊河と、洛陽市街地の南側を流れる洛河が合流した河川)が黄河に合流する地点があります。 鞏義石窟寺は、この黄河と伊洛河に挟まれたエリアに建立され、近くには大力山があるところです。
上記の「釈老志」により、2つの石窟の造営〜完成時期をまとめてみると、上の表のようになります。 世宗・宣武帝は、当初賓陽中洞と賓陽北洞を造営していましたが、財政難に直面。 505年頃、賓陽北洞の造営を中止し、既に造営を始めていたと考えられる東の鞏義石窟寺への石窟造営に方針転換したようです。 その一方で、508-512年頃に賓陽南洞の造営にも手を着けているようで、財政難がどの程度だったのか、よく判りません。 賓陽中洞と鞏義石窟寺の第1窟は、北魏の時代に完成に至ったのですが、他の石窟は未完成のまま。 その後、唐になって、時の高宗・李世民の時代に龍門石窟の賓陽南洞と賓陽北洞が完成しましたが、鞏義石窟寺の第2窟は完成には至りませんでした。 | ||||||||||||||||||||||||||||
賓陽三洞の歴史概要について、少しばかり勉強したところで、次のページからは賓陽三洞のそれぞれについて探訪してみましょう。 |
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