China Report 3.1

前漢の皇帝と陵墓

広大な関中平原に点在する歴代皇帝陵

 強大な兵馬俑を残した始皇帝が紀元前221年に秦を擁立して15年,始皇帝の孫に当たる子嬰が秦王と称して国を治めていましたが,秦の力はもはや弱体化,有名な項羽と劉邦が覇権を争う時代になります。

 紀元前206年,項羽が子嬰を殺害したことにより秦は滅びました。 同じ年,劉邦は項羽により漢中に封じられ漢王となりますが,その後項羽に宣戦して自刃させ中国を統一,紀元前202年に漢の初代皇帝:高祖となるのです。  厳密に言えば,秦から前漢の間には4年間(紀元前206〜202年)の「空白」があることになります。

 日本ではこの時代を前漢と呼んでいますが,中国では西漢と呼ばれています。 このサイトでは日本の呼び方「前漢」を使います。

 前漢の時代には,以下に示すように14代の皇帝が国を治めました。 この中で,廃帝:劉弗賀はその素行の悪さで皇帝の地位を剥奪され,歴史上でも前漢時代の皇帝とは見なされていません。  また,以下の表に示す3代皇帝少帝恭:劉恭と4代皇帝少帝弘:劉弘は摂政だったことから皇帝に含まない考え方もあるようですが,このページでは皇帝として数えることにします。 まずは前漢の歴代皇帝とその陵を以下にご紹介しましょう。

前漢の歴代皇帝とその陵
皇帝在位期間陵名渭北
九陵
渭南
二陵
備 考
高祖劉邦BC202〜BC195長陵 楚漢戦争で楚王項羽を破った前漢の
初代皇帝,長陵の北側に長陵邑あり
恵帝劉盈BC195〜BC188安陵 高祖劉邦と呂后(後の呂太后)の息子
安陵の北側に安陵邑あり
少帝恭劉恭BC188〜BC184恵帝劉盈と後宮の女官の子,呂太后
により摂政
少帝弘劉弘BC184〜BC180恵帝劉盈と後宮の女官の子,呂太后
により摂政
文帝劉恒BC180〜BC157覇陵 高祖劉邦の庶子 陵は西安の南東に
あり渭南二陵のひとつ
景帝劉啓BC157〜BC141陽陵 文帝劉恒と竇皇后の息子
陽陵の北側に陽陵邑あり
武帝劉徹BC141〜BC87茂陵 景帝劉啓の九男で,母親は王夫人
茂陵は前漢歴代皇帝の陵の中でも
最大規模で,南側に茂陵邑あり
昭帝劉弗陵BC87〜BC74平陵 武帝劉徹の末子で,母親は武帝の
後宮の女官だった趙氏
平陵の北側に平陵邑あり
廃帝劉弗賀BC749代皇帝予定者だったが節度が
無かったため在位27日で帝位剥奪
歴史上では皇帝と認められていない
宣帝劉詢BC74〜BC49杜陵 武帝劉徹の曾孫で劉進,生母は王氏
陵は西安の南東にあり渭南二陵の
ひとつ
10元帝劉※BC49〜BC33渭陵 ※(せき)は「大」の両脇に「百」
父は宣帝劉詢,母は許氏
11成帝劉$BC33〜BC7延陵 $は敖の下に馬
父は元帝劉※(せき),母は元后
12哀帝劉欣BC7〜BC1義陵 父は元帝劉※(せき)の子である定陶
恭王:劉康,母は丁姫 哀帝劉欣は
男色に耽り「断袖」の故事を残した
13平帝劉%BC1〜AD6康陵 %は「行」の間に「干」
父は元帝劉※(せき)の子中山孝王
劉興,母は衛姫
14劉嬰
(孺子嬰)
AD6〜9曾祖父は宣帝劉詢の第三子:楚孝王
劉囂,祖父は広戚煬侯劉勲,父は
広戚侯劉顕 前漢最後の皇帝と称さ
れることがあるが,帝位には就いて
いない

 前漢の(少帝恭と少帝弘を除く)皇帝の11の陵は,咸陽の南から西安北部を東西に流れる渭河(渭水)の北側に9つが,南側の西安の南東に2つが分布しており,それぞれ「渭北九陵」と「渭南二陵」と呼ばれています。

赤いの「渭北九陵」と茶色いの「渭南二陵」の分布概念図

 西安〜咸陽を含むこの地域は関中平原と呼ばれ,前漢の皇帝の陵墓のみならず,西周,秦,北周,唐などの皇帝の 70以上の陵墓があるといわれています。 特に唐の皇帝陵は, 皇帝20代のうち,昭宗(帝位:888〜900, 901〜904)の和陵(河南省洛陽)と哀帝(帝位:904〜907)の温陵(山東省荷澤)を除く18の皇帝陵がこの地にあり,「関中十八陵」と呼ばれています。

 それでは渭北九陵の最西端に位置する,前漢の5代皇帝:武帝劉徹(帝位:BC141〜BC87)の茂陵を訪ねてみましょう。


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