西安から西に45km,興平市南位郷茂陵(かつての興平県南位郷茂陵村)の地,渭北九陵の最西端に前漢7代皇帝,武帝が眠る茂陵があります。 前漢の11の皇帝陵の中で最も規模が大きなこの陵,
高さ 46.5m,1辺 230mほど(東西231m,南北234mとのデータもある)の四角方錐形で,敷地面積は 54,000平方mほどの広大なものです。
この陵の所在地については諸説あるようですが,人民網 2000年11月20日付の陜西省歴史沿革 によると,
1993年に興平県から陜西省直轄の興平市に変更されています。 残念ながら中国の詳しい地図を持ち合わせていないのですが,興平市にあることは間違いなさそうです。
茂陵は前漢の7代皇帝:武帝劉徹の陵です。 武帝は前漢の隆盛期の皇帝として,半世紀以上の長きに渡って帝位を維持していました。
この時代,皇帝は帝位に就くと翌年から自分の寿陵(生前の埋葬前の陵墓)の用地を確保して造営を始めることが慣わしでした。 その費用として,
毎年租税の 1/3 の費用が生涯を終える53年間もの長きに渡って充てられています。 一概に比較はできないかもしれませんが,現在の日本の年間税収は概ね40兆円,
その 1/3 が 53年に渡って費やされるわけですから,総額は 700兆円(!!)にものぼるという訳です。 ひぇ〜!
【前漢 7代皇帝 武帝 データ】
生 没 | BC 156 〜 BC 87 (享年 69歳) |
在 位 | BC 141 〜 BC 87 (在位 54年) |
諡号 (しごう) | 帝号 | 孝武皇帝 |
廟号 (びょうごう) | 世宗 |
姓 | 劉 |
諱 (いみな) | 徹 |
父 | 6代皇帝 景帝劉啓 |
母 | 王夫人 |
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閑話休題。 武帝の名は,崩御後に奉る生前の業績への評価に基づく名として付けられる「諡号(しごう)」である孝武皇帝の略称です。 ちなみに中国の歴史上「武帝」の諡号を持つ皇帝は,
後漢の光武帝劉秀,西晋の武帝司馬炎など21人いますが,中でも前漢の武帝が最も「有名人」です。
武帝は BC136年,董仲舒(BC176頃〜BC104頃)の献策により「詩経」「書経」「易経」「春秋」そして「礼記」の五経(儒学の古典)を教授し,
文教政策を司るために五経博士を置き,儒学を官学化しました。 このように儒教を重んじたことから,諡号に「孝」が冠せられています。
中国史上,名君のひとりといわれる前漢武帝の功績としては,
- BC139年に張騫(ちょうけん)を匈奴討伐の同盟締結のために西域の大月氏国へ派遣したが,張騫は途中で匈奴に捕まり大月氏国に辿り着いたのは10年後。 残念ながら大月氏国との匈奴征伐の同盟は締結できなかったが,
武帝は BC126年に長安に帰国した張騫の「西域情報」を尊重した。 この情報は貴重なもので,後の匈奴攻めに貢献したのみならず,シルクロード交易の礎を築いた。
- BC134年「郷挙里選」を制度化。 当時の中央>地方の行政組織は,郡>県>郷>里 となっており,郡の太守が自分が治める地方の逸材を皇帝に推薦することを制度化した。
- 前漢初代皇帝:高祖劉邦以来,漢の国は対外的に消極策を取り,特に北方の匈奴には低姿勢で臨んでいた。 建国以来60年の間に国力を充実させたこの時代,武帝は対外発展,領土拡大に力を入れ,
衛青や霍去病らの力で BC119年に匈奴を討伐した。
- 外部への積極政策により財政難に陥ったことから,BC115年に農作物を豊作の地から凶作の地へ転売できる「均輸法」を制定,また BC110年には物資が豊作の時に国が買い上げて貯蔵し,
不作の時期にこれを放出できる物価統制策の「平準法」を制定した。 この他に,塩,酒,鉄などの専売制を敷いた。
- BC108年,衛氏朝鮮を滅ぼし,楽浪郡,真番郡,臨屯郡,玄菟郡の漢四郡を設置,中国始まって以来の大帝国を築いた。
などが挙げられます。
茂陵周辺からは,豪華絢爛な金メッキの銅馬像,青玉鋪首,銅製の犀形酒器や金銀メッキの竹節香炉などが出土しています。 それなりの予算を費やした陵墓なので,悪党にも早くから眼を付けられていたようで,
前漢末期には既に盗掘にあっているという記録もあるとのこと。
規模が大きな茂陵のまわりには,匈奴征伐で名を馳せた衛青や霍去病の墓など,20あまりの陪塚があります。 また陵を護るための茂陵邑が南側につくられ,漢の時代に 28万人が住んでいたとのこと。
茂陵から東に1km程のところに霍去病墓があり,現在では茂陵博物館として公開されています。