広大な乾陵には,章懐太子(唐の三代皇帝:高宗李治と則天武后の第二子である李賢)の墓や懿徳太子(則天武后の孫である李重潤)の墓など17の陪塚がありますが,このうちの1つがこの永泰公主の墓です。
永泰公主 (684-701) は高宗李治と則天武后の息子である唐の四代皇帝:中宗李顕 (在位:683-684 及び 705-710) の7番目の皇女で,李仙宸ニ名付けられました。 彼女は則天武后の甥に当たる武承嗣(則天武后の異母兄である武元爽の息子)と結婚し,
永泰群主(「群主」とは皇太子の娘の位,「郡主」と書かれることもある)の称号を授けられています。
墓にある墓誌銘の記載によると,彼女の死因は難産とされていますが,彼女が祖母である則天武后の政治姿勢を批判したことが則天武后の耳に入り,死に追いつめられたとの記録があります。
701(長安元)年,皇位に就いた則天武后が,政事の大半を贔屓にしていた張易之・張昌宗の兄弟に任せっきりにしていたことを,2つ違いの兄である懿徳太子李重潤や夫の武承嗣と共に密かに批判したことが外部に漏れ,張易之の耳に入ります。
張易之はこれを直ちに訴えると則天武后は激怒し,三人を追及して自殺に追いやったとされています。 弱冠17歳でこの世を去った永泰群主は,洛陽の地に葬られました。
則天武后の死後,父である中宗李顕が復位すると,永泰群主から永泰公主(「公主」とは皇女の称号)に追尊され,706(神竜2)年,則天武后を乾陵に高宗李治と合葬する際に,洛陽の墓を改葬し,夫の武承嗣と共に合葬して乾陵近くに陪葬しました。