河南省・洛陽郊外の龍門石窟、本編に入る前に何故この地に石窟が存在するのかを予習しましょう。
中国の歴史を溯ると、五胡十六国の前秦が 394年に滅亡した後、北方の鮮卑族の拓跋珪(道武帝)が 386年に北魏を建国します。 その後 398年に北魏は河北・山西を攻め、平城(現在の山西省大同)に都を移しました。
一方で仏教は漢の時代に中国に伝わり、三国時代から晋、そして南北朝の時代に中国各地で発展しました。 北魏の政策は仏教を国民統治に利用し、初代皇帝道武帝と2代皇帝明元帝は、
釈迦と皇帝を同一視する(皇帝即如来)ことで皇帝の権威を高めたといわれています。 しかし、3代皇帝である太武帝(即位:423〜452)は、廃仏棄釈の考えのもとで仏教を厳しく排斥し、
漢民族の道教を保護しました。
452年に北魏4代皇帝文成帝が即位すると、仏教排斥を緩和して仏教復興事業に乗り出します。 そして460年に先亡皇帝達の追善のために、当時の国都であった平城の西に雲岡石窟の造営を始めるのです。
498年、6代皇帝孝文帝は中国を統一するためには都の平城が北に偏りすぎていたため、東斉を伐つとの口実で集めた大軍により洛陽に遷都します。 この翌年に皇帝に即位した7代皇帝宣武帝は、500年頃に伊河沿岸の伊闕に石窟を掘るように命じましたが、実際はその数年前には、
丘穆陵亮夫人尉遅が亡き息子牛ケツ(ケツは「木」へんに「厥」)のために弥勒像1体を造像して供養した記録(牛ケツ造像記:495)があり、この頃が龍門石窟の造営の始まりといわれています。