China Report 4.13

河南省・龍門石窟
〜奉先寺洞〜

龍門石窟で最も規模が大きい奉先寺洞の全景

 龍門石窟の象徴的存在である奉先寺洞。 ここは、敬善寺洞万仏洞 同様、唐の時代の造営で、三代皇帝・高宗李治と則天武后が莫大な資力にモノを言わせて創り上げた、いわば芸術作品です。


奉先寺洞の解説
 龍門石窟の第1260窟である奉先寺洞の解説には、

 もともとは大廬舎那仏龕。 唐の時代の 672(咸亨3)年に三代皇帝:高宗李治 が建立を始め、皇后武則天(則天武后)が化粧品代の2万貫の金を寄進して、 675(上元2)年に完成した。 廬舎那仏の高さは 17.14m、顔の長さは4m。 主尊の右の迦叶は落ち着き、左側の阿難はおとなしく従順な姿。 両脇の菩薩は色鮮やかな盛装を身に着け、天王は壮大・雄壮、力士は勇猛である。 これこそが中国・唐時代仏教彫刻の芸術的傑作である。

と書かれています。

 さて、ここで登場した「2万貫」、今の貨幣価値にしてどのくらい? 編集部で調べたところに寄ると「貫」は昔の貨幣単位。 中国では穴が空いた銭(1文銭)に縄を通し、1000枚分(=1000文)を1貫と称していたようです。 中国の唐の時代の貨幣価値を、 落語の「時そば」の時代で翻訳するのは、いささか時代錯誤が甚だしいのかもしれませんが、「時そば」のそば屋が二八そば(小麦粉2:そば粉8の割合で作ったそば)を 16文で売っていたことを思い出してみましょう。

 屋台のそば(今で言うところのラーメン?)の現在の価格を \500 と仮定すると、1貫=(\500÷16×1000)で概ね \31,000。 ということは、2万貫はその2万倍になるので、6億円余り! まぁ、貨幣価値が異なる時代の換算なので、いい加減な計算と眼を瞑っても「数億円」に相当するようですね。  数億円の化粧品代ですかぁ。 高級コンパクトがあの価格だから〜・・・もうやめにしましょう。


奉先寺洞主尊の大廬舎那仏

 奉先寺洞の主尊は、サンスクリット語の「Vairocana:ヴァイローチャナ」を音訳した毘廬舎那(びるしゃな)仏の略称である廬舎那(るしゃな)仏。 廬舎那仏とは、身智の光明があまねく全ての人を照らして悟りに導く仏で、密教では大日如来を指します。 この廬舎那仏は、 建立した則天武后の姿を写したものともいわれていますが、「容姿端麗」というより「眉目秀麗」の例えがピッタリな美しい姿の仏像です。


主尊を見て右側から守る石像 左(主尊に近い方)から
〔左〕:迦叶(迦葉)、左脇侍菩薩、〔右〕:天王(多聞天?)、力士

 主尊を見て、その右側に見えるのは、近い順に、釈迦十大弟子の一人、少しばかり崩落していますが謹厳荘厳と思しき迦叶(迦葉:かしょう)と左脇侍菩薩。 南側の壁面には比較的原型を残した天王、力士の立像です。 右側の天王は、右手に宝塔のようなものを持っていることから(これが釈迦の遺骨を納めた宝塔だとすれば)、多聞天(毘沙門天)という説があり、 これが多聞天の場合、足下に出ている顔は、多聞天の眷属(随伴者)である夜叉(地行夜叉?)または羅刹と推測されます。


主尊を見て左側から守る石像 左(主尊に遠い方)から
〔左〕:力士、天王(自国天?)とその右に小さな立像、〔右〕:右脇侍菩薩、阿難

 主尊の向かって左にも、右側同様に大きな立像があります。 写真に対応するよう主尊から遠い順に、北壁の左側に顔が崩落した力士像、その右に天王。

天王(自国天?)の足下の石像
乾闥婆か毘舎闍?
 この天王は大部分原型を留めていませんが、右の天王が多聞天と推測されることから、比較的ペアを組む頻度が高い自国天という説があります。  この天王が自国天であれば、足下の顔は、眷属の乾闥婆(けんだつば:古代インドのガンダルヴァ)または、毘舎闍(びしゃじゃ) の可能性があります。

 更に、あまり気にされてないようですが、この天王立像の右側に、少し背が低い立像があります。 あちこち調べてみましたが、この像の解説を見つけることはできていません。(どなたかご存知の方、ご教示下さい。)

 主尊の二つ左には右脇侍菩薩立像、そして主尊のすぐ左には迦叶(迦葉)と対比する形で、温順敬虔な姿の阿難立像が刻されており、二弟子、二菩薩、二王、そして二力士により、主尊の廬舎那仏が守られているのです。


 以上、龍門石窟の造営が始まった北魏の時代から、全盛期の唐の時代までの代表的な石窟を紹介しました。 今から1000年以上も前の造営物を間近に見ると、中国の歴史と当時の技術に、ただただ驚嘆するばかりです。

 龍門石窟の旅は、これで終わり。 次のページでは、龍門石窟周辺を散策しましょう。


前のページへ 西安・洛陽旅行記
トップに戻る
次のページへ