Episode 8
歴史を知る 
 異国の人々と交流するには,相手の歴史を知ることは必須,これはこれまでの経験から学んだことである。

 アメリカに行った時に泊めてくれた大学教授の友人は,自分の住む町の歴史や自分の祖先がいつ,どこからアメリカにやってきたのかを事細かに話してくれた。 その時に「で,おまえはどうなの?」と聞かれ, 何も答えられなかった自分を恥ずかしく思った。 彼は「アメリカはたかが200年の歴史だけど,日本は数千年の歴史だから仕方ないよな」とフォローしてくれた。

 タイの歴史を溯ると,6世紀の頃から,現在のインドや中国から渡来した民族が様々な小国家を成していたが,13世紀初頭になってタイ族が統一王朝をスコータイに建国する。 スコータイ王朝3代目のラムカムヘン王の時代には, 現在のタイとほぼ同じエリアに領土を拡大し,またタイ文字の統一など現在タイの礎を形成した。 しかしスコータイ王朝の隆盛は長続きせず,その後14世紀中期に同じタイ族が築いたアユタヤ王朝に併合された。

 アユタヤ王朝は15世紀前半には今のカンボディアに侵攻,クメール王国のアンコール朝を滅ぼし,スコータイ王朝の時代よりも広いエリアを勢力範囲に治めた。 度重なる王権争いやビルマ(今のミャンマー)からの侵攻に耐えてきたアユタヤ王朝は, タイの歴代王朝の中で最も長く栄えたが,ビルマからの侵略に敗れ,1767年にその歴史に幕を閉じた。

 その後,アユタヤ王朝の高官であったタークシンがビルマを撃退し,チャオプラヤ川下流西岸のトンブリに王朝を開いたが,この王朝は1代限りで終わり,1782年に現在のラタナコーシン(チャクリー)王朝がチャオプラヤ川の対岸(東岸)に成立した。

駆け引き上手 
 19世紀になると西欧諸国が植民地主義を振りかざして東南アジアに進出してくるが,ラタナコーシン王朝が治める当時のシャムは西欧に閉鎖的な姿勢を見せることで,頑なに独立を守った。 シャムは再び勢力を取り戻し, 最盛期には現在のラオスやカンボディアの一部に宗主権を回復している。

 日本に近代化がもたらされた19世紀中期,当時のチュラロンコーン王(ラマ5世)は国の独立維持と近代化に務め,郵便事業の導入や鉄道の建設,軍隊の近代化などを図った。 当時のシャム周辺は,西(ビルマ)と南(マレーシア)がイギリス領,北(ラオス)と東(カンボディア)がフランス領であり, シャムはイギリスとフランスの緩衝地帯として独立を保っていた。 しかしながら,シャムに様々な要求を突きつけるイギリスやフランスに対し,1904年に現在のカンボディアの一部のアンコールワット周辺地域をフランスに, 1909年には現在のマレーシア北部地域をイギリスに割譲せざるを得なかったが,駆け引き上手な外交政策を駆使して独立を維持し続けたのである。

 1932年に立憲国家となり,国名が現在の「タイ王国」になったのは1938年である。 第二次大戦時代,タイは日本軍の進駐を認めたため,日本の降伏後,連合国は日本に協力したタイ政府を責めた。 しかしタイ政府の「日本軍の侵攻によってやむなく協力した」などという主張が認められ, 敗戦国とは扱われず連合国から寛大な扱いを受けることになった。 ここでもタイの駆け引き上手な外交政策が遺憾なく発揮されている。

国民性2 
 アジアの大陸から離れた島国である日本には,日本なりの歴史がある。 我々日本人の国民性の一端は,この歴史が育んだものであることは間違いない。

 タイの人達の代表的な国民性もまた,上記のタイの歴史(略史)に裏付けられるものが多い。 タイの人達は概して誇りが高く,滞在中に接した輩の中にはフランス人よりもスゴイのではないかと思える人も居た。 また,問題を解決するための会議や決裁者の決断も,竹を割ったような明解なものでなく, 決まったのか決まってないのか判らない,これからどうしたらいいのか判らないようなことも少なからず経験した。 しかし,タイの人達はこのような不明瞭な決断にもかかわらず淡々と事を進め,いつの間にか問題を解決してしまっていたことが多々あった。

 我々には理解が難しいこのような「特徴」は,まさに国の歴史がつくり上げた国民性と言えるのではないだろうか。 我々日本人の代表的な国民性にも,外から見ると理解しがたいものがあるのだろうが,その中には知らないうちに歴史に育まれたものがある筈だ。 〔2006年3月記〕