China Report 3.9
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咸陽博物館 |
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咸陽市中山街に位置する咸陽博物館 |
始皇帝が拓いた秦の時代の都で,陜西省の省都西安から北西に25kmほどにある街,咸陽。 この地名の由来は,風水において「陽」が山の南側,河の北側を指すことから,北に九ソウ山(ソウは「峻」の旁の「ム」を「凶」に替えた文字)を望み,
南に渭河を控えるこの地が「ことごとく陽」にあることから,咸陽となったと伝えられています。 咸陽の咸は「みな」「ことごとく」という意味です。 陰陽の地名は日本でも中国地方の山陰(中国山脈の北側),山陽(中国山脈の南側)にもみられます。
咸陽市は陜西省でも大きな街で,西安の衛星都市のような位置づけです。 人口は 483万人(2000年第五次全国人口普査陜西省主要数据公報:2001年4月23日発表による)で,西安の約65%。 日本の千葉県成田市と姉妹都市提携を結んでいます。
咸陽市中山街に,中国でも著名な博物館の一つである咸陽博物館があります。 この博物館は,明の時代の1371(洪武4)年に建てられた孔子廟の跡を活用して1962年に開館したもので,咸陽が国の都として栄えた秦から,その後の漢の時代にかけての時代を中心とした貴重な歴史文化財を5000点以上所蔵しているとのこと。
さて,どんな展示物があるのでしょうか? 館内を巡ってみましょう。 |
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【秦咸陽歴史文物陳列】 |
入って正面にある秦時代の咸陽歴史文物の陳列館。 博物館には7つの建物があり,屋内外にさまざまな歴史文化財が展示されている。 |
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【銅鼎】
鼎は古代中国の礼器のひとつで,王権の象徴として重用されたもの。 もとは肉などを調理するための鍋状の器で,棒を通す2つの耳と下に火をくべる為の3つの足がある特徴を持つ。
現代では3つの足が転じて「鼎談(三者で話し合うこと)」のように3人が寄る意味にも使われている。 |
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【銅鍾】
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鍾とは壺形の酒器のこと。 この鍾には,首のところに何か文字が刻んであるが,ピンボケ(失礼!)のため何と書いてあるかは判らない。 字体から秦の時代以前のものと推測される。 |
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【石鼓文の複製?】
秦咸陽歴史文物陳列館の中央に展示されていたもの。 説明がない(撮影していない)ので詳細不明だが,刻まれている字体から石鼓の複製品だろうか。 石鼓とは太鼓状の形をした花崗岩に文字が刻まれた碑で,唐初期に陝西省鳳翔府天興県で10基出土した。
現在は10基とも北京の故宮博物館に保存されている。 石鼓文は現存する最古の石刻文字で,篆書の中でも古い時代に属する大篆に属する。 後に呉昌碩 (1844-1927) が石鼓文を研究し,書道界のバイブルの一つになっている。 |
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【各種瓦当】
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瓦当とは,軒瓦(のきがわら)先端の丸または半円の部分のことで,ここにさまざまな模様や文字が刻まれているもの。 右の瓦当は秦の時代のもので,右の行から 維天降霊 延元万年 天下康寧 (これ天,霊を降して延元万年天下康寧ならんことを!) の十二文字が刻まれていることから「維天降霊十二字瓦当」と名付けられている。 |
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【西漢兵馬俑館】
この門の向こうの建物には,秦始皇兵馬俑より一回り小型の揚家湾から出土した彩色兵馬俑などが展示されている。 残念ながらデジカメのメモリ不足のため,撮影できなかった。 |
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館内には,始皇帝が秦を統一した際の文字の変遷や,共通文字として制定した小篆を使ったエキ山刻石(エキは「譯」の言〔ごんべん〕が山〔やまへん〕に代わったもの)の拓本も展示されていました。
このエキ山刻石は,西安の碑林博物館に模刻が展示されています。
今になって勉強すると,ここには 則天文字 を使った順陵残碑があった筈なのですが,予習不足だった当時はそんなものには目もくれませんでした(反省)。
この咸陽博物館巡りで,西安から西部方面の漫遊記は終わりです。 咸陽周辺の墓陵を題材に,国を統一した秦の時代から項羽と劉邦の漢の時代,そして則天武后の唐の時代を駆け巡ってきましたが,いやいや,中国の歴史の何と重いこと,深いこと。
西安・洛陽旅行記,次はどこを訪ねて,どんな時代を巡るのでしょうか?
(左)「馬」と「安」を例にした秦時代の漢字の統一の変遷 (右)エキ山刻石の拓本 (エキは「譯」の言〔ごんべん〕が山〔やまへん〕に代わったもの) |
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