Report 36 | ||
追悼 白髪将官 | ||
「橋田さんのことだから,きっとゲリラに捕まってるんだよ。 ちゃんと生きて還って来るよ。」 バンコクで橋田さんと共に過ごした友の言です。
橋田さんはかつてカンボディアで取材した時にポルポトに捕まりながら,彼らを諭して堂々と生きて帰ってきた男です。 今回もイラクには何度も行かれているので,
イスラム教の宗派や力関係,アラブの人たちの人間性は身をもってご存知ですから。 でも,還って来なかった...。
もとはと言えば,別件でお世話になった方に橋田さんを紹介して戴いたのが 2002年の10月頃。 橋田さんがバンコクに滞在されている時は,橋田さんのお宅で概ね毎週土曜日にパーティーが開かれてました。 出入りしているのはジャーナリスト関係や地元の雑誌やフリーペーパーの編集関係者,またバンコクに住み着いて仕事をされている方々など。 そんな中で駐在員の私は珍しく「堅気の人間」として受け入れて戴きました。 毎回とは言えないまでも月に1回程度はお邪魔し,橋田さんはもちろん,その日参加の方とケンケンがくがく,まじめなハナシやバカなハナシを交わしていました。 ここは,海外に生活し,仕事でも生活でも日本語を話す機会が極めて限られる私にとっては,オアシスのようなところだったのです。 パーティーの中でいつのまにか「酒担当」になってしまった私は,参加の皆さんで酌み交わせるようにとワインや焼酎など,いろいろ持ち込んでいました。 でも,橋田さんは「オレ,酒飲まないから。」と,酒を飲まれませんでした。 橋田さんに悪いなぁと思いながら,いつも酒しか持っていかなかったのですが,ある時に持っていった『れんと』という奄美大島の黒糖(サトウキビ)焼酎は,パーティーの中でちょっとしたセンセーションでした。 焼酎の味ではなく『れんと』が入っている コーラルブルーのボトル に,橋田さんが惚れ込んだのです。 「コレ,いいねぇ。 誰にもやらないよ!」と,彼は空いたボトルを子供のように大事にしまい込んだのです。 その後,橋田さんのお気に入りの棚に飾られているのを見て,飲んだくれている私も少しばかり恩返しできたような気になりました。
日記のページにも書いたとおり 今年の4月11日,私がバンコクに行く時にたまたま空港でお会いし,同じ飛行機でバンコクに行きました。 この時は例の日本人人質事件が解決するかしないかの時期で, 橋田さんはバグダッド入りするタイミングを計っておられたようです。 その後4月中旬に甥の功太郎さんと一緒にバグダッド入りされました。 一緒に犠牲になった功太郎さんとも今年の3月20日に件のパーティーでお会いし,いろいろとお話ししました。 実直な方で「これからバグダッドで橋田さんと取材する」ことに不安がありながらも,夢を持たれていたようです。 橋田さんのところに出入りするうち,「アンタ,カミさん連れて来ないかね?」と何度か言われたことがあります。 パーティーは土曜の夜中だし,子供達も居るので結局カミはんが行くことはなかったのですが, 家族で空港に見送りに来てくれた4月11日は飛行機を待つひととき,橋田さんとうちの家族でちょっとお茶しました。 その後飛行機の中で「アンタのカミさん,シッカリしてるねぇ。」と橋田さんに誉めて戴いたので,少しばかりテレました。
2004年6月10日,故郷の宇部で橋田さんと功太郎さんの「お別れの式」が催されました。 事件後,一連のインタビューに気丈に応じられた橋田さんの奥さん,幸子さんの姿もそこにありました。 式の後,退場ルートの雑踏の中で参列の皆さんにお礼を言われている姿を目にした私は,バンコクで橋田さんのところに出入りしお世話になったことを幸子さんに感謝しました。 物故者を偲ぶ湿っぽい日本の法要スタイルの中で,新しい旅立ちを祝福するが如くのタイの法要スタイルで橋田さんを見送ることができた,いいお別れの式だったと私は思っています。 気丈な幸子さんの姿を見て,橋田さんに戴いた「アンタのカミさん,シッカリしてるねぇ。」という言葉は,「オマエ,カミさんを大事にしてシッカリ生きろよ。」というメッセージだったと,今になって思い返しています。 橋田さん,人生の良き出会いをありがとうございました。(2004年6月記)
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